友枝家について
「友枝家」
室町時代に、北岡神社御鎮座の際京洛より供奉したる舞楽座の首班として、熊本へやってきた友枝氏と祇園社との密接な関係は、格別のものであったようである。
八助の書付には、先ず旧国府二本木に居住。その後、初代友枝大膳は加藤清正の命で古紺屋町の常在院の真向かい四間口に居住。更に新町一丁目に移り、市を始め板屋を営んでいた。(細川)忠利入国の際には、絵図を持参したり、御客屋として屋敷を提供したりして、祇園社とともに清正・細川時代において確固とした特権的商人に成長したと思われる。
(肥後国府がいつから二本木に設けられたかは定かではないが、貞観三年(861)に託麻国府から飽田国府に移ったと見られる。また、府庁は、湯原〈現二本木五丁目〉に創建され、承平七年(937)に車屋敷〈現二本木二丁目〉に遷座されたと思われる。)
「町在」
嘉永五年(1852)本座太夫友枝源重の養子八助、稽古扶持として三人扶持下し置き候
安政四年(1857)熊本町本座太夫友枝小膳養子三郎、稽古扶持として三人扶持下し置き候「北岡神社のホームページ」
江戸時代になると、能楽をこよなく愛好した歴代細川藩主から手厚い保護をうけながら広まりをみせていた。この頃から本座は友枝家を首班とした謡曲喜多流を始め、寛政二年(1790)頃には、本座太夫として友枝源十郎・小早川徳右衛門がつとめていた。(初代小早川徳右衛門は北岡神社に勤める本座狂言太夫家であった。)
「友枝三郎」
天保十四年(1843)九月十九日、牧野又三郎の三男として生まれ、六才の時に喜多の能大夫友枝仙吾に入門。七・八才からすでに神童とうわさされた。
十才の時、実父又三郎が亡くなった為、修行を辞めねばならなくなった。が、師の仙吾は三郎の天性を惜しんで、子である源重の養子とした。
長男であった源重には男子がいない為、後を小膳に譲った。しかし、小膳は実子の仙十郎に譲らずして、養子の三郎に譲った。三郎は更に其の跡を義弟の仙十郎に譲り、実子為城には別に一家を建立させた。
三郎は、十四才のとき、肥後藩の御用人松井典礼に従って江戸より上り十二世喜多六平太の内弟子となった。
明治三年、二六才の時、帰国した。明治維新の改革により修行したことが全く無価値となった。藩からの「渡し米」もなくなり、仕方なく塗師屋・提灯屋・駄菓子屋・熊本鎮台の会計部の小使い・五福小の校番などをした。辛苦困難な中でも、熊本からは離れず、門下生が建てた舞台と住居に喜んで安住した。時に請われて上京、十四世喜多六平太の指導にもあたっていた。
大正六年五月二六日、仕舞「雨月」を舞ってそのまま眠るように死去。享年七十六歳。
参考資料
『新熊本市史 絵図編上』『熊本県人物史』
『永青文庫 町在』
『熊本能楽略史』
『平成肥後国誌』
『肥後先哲遺蹟 後編』
『菊池一族』