お能の質問箱

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相模の都鳥 さん (神奈川県 女性 50代)

能には女物狂いというジャンルがあるようです。
『隅田川』ではワキがシテに「面白う狂うて見せよ」と要求します。シテは業平の和歌で応えます。
文学でも『徒然草』では冒頭に「つれづれなるままに」書き連ねると「あやしふこそ物狂おしけれ」という心境になると書かれています。
物狂いとはある種の芸能に通ずるのかと思われてきますが、 能楽では物狂いの「狂うさま」をどのように捉えて演じられるのでしょうか?(物狂いそのまま、あるいは芸を披露する、など)。
流派によって捉え方の違いはありますか?

ご質問、ありがとうございます。

演者にとって興味深い質問ですが、簡単にお答え出来る内容でもないです。 

能における「狂う」というのは

現代のそれとは、意味合いが違っています。

いわゆる「狂女物」と言われるジャンルの演目は、子供を失った母親を主人公にしている事が多いです。これは「狂う」という状態がある一つの事象に対して、強い感情や想いを持ち続ける事だと思います。それは執心とも言えるかもしれません。

現代の「狂気」と違う所は、我が子や自分の思う男性を追い求めて彷徨い、想いをとげると精神状態が落ち着き、通常の女性に戻ります。なかなか現代生活の中で身近にある感覚ではないのかもしれませんが、冷静と興奮が介在している複雑な状態だと言えます。その証拠に隅田川のシテは、船頭との会話で冷静に相手を説き伏せてしまいます。この様な場面は、他の狂女物の演目にもよくある演出で、ひとつの見所でもあります。

また「狂う」という状態が、神がかかりに近い、と言うこともあります。神がかりは、芸能とも繋がり多くの狂女が舞い、謡います。この事が、「面白く狂え」という言葉に繋がるのだと思います。 

演者にとって狂女物の演目は、舞台活動の中でも、ひとつのテーマです。特に「隅田川」は難易度の高い曲です。都より子供を探し求めて彷徨い歩いた狂女は、(当時、女性の一人旅は危険で、神がかった状態が安全だったという説を聞いた事もあります。)死別という結末で終わります。狂女物の演目でも唯一の悲劇です。

「隅田川」では明け渡る東雲の情景と共に終曲となります。この母親は、悲しみの果てにどの様な精神状態になったかは、一切ふれずに。

彼女が冷静に戻れたか、我が子を追い求め、狂気から戻れなくなったかは分かりませんが、どの流儀でも曲の主題は同じだと思います。狂女物を舞う時は、その原因をしっかり捉えていることが大事です。ただ先述の通り芸能に通ずる狂気ですので、舞いや謡も演出が多いです。感情表現より、舞台での舞姿や謡が未熟では成立しないと言えます。演者はこちらの方に重きをおく方が多いと思います。

因みに、生身の人間が舞を舞うという事は、神かがりと同意になるので、男性の場合は必ずお酒を頂いて日常の状態から離れて舞います。例えば「安宅」の弁慶は、冨樫からお酌を受けて舞を舞います。舞う、という精神状態と義経を助ける、という目的。冷静と興奮が混在していると言う事が出来ると思います。 

ご質問のお答えになるか、自信がありませんが、いわゆる四番目物の面白さは、疑問を持たれた点にあると思います。今後の鑑賞のお役に立てばと思います。

 

 

友枝雄人

2016年11月2日更新