お能の質問箱

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MI さん (大阪市 50代 女性)

3年目の挑戦でようやくセルリアンタワー能楽堂のチケットが取れて、7月5日の「通小町」を拝見することができました。
悲哀と凄烈が混じったような物語で、小野小町と深草少将それぞれに感情を移入しながら観ていました。来年もぜひ、行きたいと思います。
帰りの新幹線の中でふと思ったのですが、小町は「小面」に華やかな装束なのに、少将は「痩せ男」の面に地味な装いで、二人とも亡霊なのに、随分な差があるなあと。
小町は死んでも“絶世の美女”という意地があったのか、少将は執念疲れで老け込んだのかなとか、現世で美男だったとしてもあんな爺さんにつきまとわれるのは嫌だろうなとか。
能楽師の方はどんな風に考えるのだろうと、この質問箱を利用させていただきました。
質問にならない質問でごめんなさい
よろしければご見解をお願いします

ご質問、ありがとうございます。
また酷暑の中、東京までお運びいただき感謝申し上げます。

ご指摘いただきました通小町のツレの姿、実は鋭いお尋ねです。
小野小町は100歳近くまで長生きした女性として、「卒都婆小町」、「鸚鵡小町」という、謂わゆる老女物という演目がございます。これらの曲は姥や老女といった年老いた女性の面を使用します。
その点から考えると、通小町のツレ、小野小町の亡霊もその姿が若い女性として現れる事は整合性が無いのです。
ご質問の点、これは単純に演出のみがその理由です。
逆に考えますと、ツレも老いた姿にしてしまいますと、自分のみ成仏しようとする小町に死後も恨みがましく取り憑く少将の感情が浮き彫りに出来ず、この曲の趣旨がぼやけてしまいます。
シテの痩男の面は、生前の邪淫の罪で死後に苦しんでいる表情です。痩女という面もあり、これも同じ苦しみを表す面で「定家」などに使用されます。
ツレもこれらの面を使用する事が理論的には正しいと思いますが、もしその様な演出になると、舞台は重く暗いのみの空間となり、曲の主題、少将の死後にも続く小町への執心(成仏よりも小町を選ぶほどの強い感情)がぼやけてしまうことになります。
華やかな小町、死後も満たされない少将、この落差と百夜通いの有様をこの二人が死後にも行きずりの僧に見せて成仏できること、これが本曲の見どころかと思っております。

友枝雄人

2025年7月7日更新