2023年10月30日

弱法師について

11月5日の友枝会を前にギリギリになりましたがちょっと弱法師についての調べたことをまとめてみます。弱法師は人の讒言によって家を追い出され不遇の身の上となっていた少年が身分を回復して再び元の家に戻るという、小公女のような話です。一見単純なハッピーエンドのストーリーのようですが、少し考察を加えてみましょう。

まず、弱法師の舞台は難波の四天王寺の西門を出たところにある石の鳥居、頃は二月時正の日(春分の日)、時刻は日没時です。四天王寺は聖徳太子が発願した日本最古のお寺の一つです。

四天王寺式伽藍配置という言葉を日本史で習った人もいるでしょう。現在も色々な説はありますが、推古朝の頃には現在の場所に存在していたと考えられています。その後度重なる震災、火災等により何度も再建された為、現在の伽藍に創建当時の面影を彷彿とさせるものは残念ながらほとんどないと、先日実際に参拝した時に感じました。世界最古の企業とされる「金剛組」はこの四天王寺建築のために百済から招いた職人がその祖となり、度重なる四天王寺の普請に関わってきたことは有名です。聖徳太子は仏教の教えを政治の基盤とし、仏の教えに従って今で言う社会的な弱者を救う場として四天王寺を位置付け、身寄りのない人を救う悲田院が作られたという伝説もあります。そうした考えは平安時代以降も引き継がれ、鎌倉時代の僧侶忍性は四天王寺の別当に命ぜられると西門の外にあった鳥居を石の鳥居に再建し、これが現在も残る「西門の石の鳥居」です(石の鳥居としては日本最古の鳥居)。また平安末期頃から四天王寺の西門は西方極楽浄土の東門(入口)に向かうとされ、特に西門から石の鳥居へのラインは真西に向いており、春分・秋分の日に難波の海の向こうに沈む太陽を拝むことで極楽浄土を思う日想観という信仰が流行します。

石の鳥居の外から西門を臨む。

現在は大阪湾の埋め立てが進んだのとさまざまな建築物が建っているせいで石の鳥居から大阪湾は見ることができませんが、西門から石の鳥居の向こうに沈む太陽を拝む日想観は現在も行われていて多くの人々が集まるようです。

石の鳥居から大阪湾の方向を見る。建物があるが四天王寺が高台に建っているのが分かる。

さて話をもう一度中世の四天王寺西門前に戻しますが、この西門前は当時は極楽浄土への再生を願うこの世では救われようない弱者が集まる所であったようです。前述の忍性が石の鳥居を再建したのもそうした弱者を救ういわばシンボルとしたかったのかもしれません。だとすると「弱法師」のシテ俊徳丸は高安通俊が勘当した息子というキャラクターだけでなく、目の不自由なというハンディキャップを持たせることで当時西門の辺りにいたそうした弱者たちの象徴とも言えるわけです。

さて能「弱法師」の進行を見てみます(弱法師の詞章はこちらから)。まず最初にワキが登場し前説的に自分の立場を語ります。その後登場するシテは、独白的な長い謡を謡います。その初めの方に「鴛鴦」「比目」「妹背」といった言葉が出てきますが、これは現在の少年の姿のシテに相応しい言葉ではありません。古い時代にはシテの妻が出てくるという演出もあったそうで、おそらく作者であろう観世元雅は当初はシテは少年でなく、ある程度年を重ねた設定で、後年になって可憐さと悲壮感を際立たせるために少年のキャラクターに変えられたものかもしれません。いずれにしてもシテは現在の身の上を嘆き、かつての高僧の不遇と我が身を比べ、そして唯一の救いの場である四天王寺の西門にやってくるのです。そしてワキからの施行を受け梅の花の香に心を寄せ、四天王寺の来歴を思い遣り、ひたすらに救われることを願うのです。

この後の展開は特に解説をしなくても舞台をご覧になっていただければ特にわかりづらいところはないと思います。ちなみにこちらの方にもあらすじその他がご覧いただけるので、よろしければご参照ください。

友枝 真也