2016年10月8日

「安宅」鼎談

安宅を勤めさせていただいての感想を掲載させていただきましたが、安宅上演にあたり、成城大学教授の大谷節子先生と古美術評論家の青柳恵介先生と鼎談させていただき、演能当日のパンフレットに掲載させていただきました。初演にあたってとても為になる内容のお話が出てまいりましたので、この機会に当日ご来場いただけなかった皆様にもご覧いただきたくホームページにも掲載させていただきます。

 

義経と弁慶の物語――知謀・剛勇・忠義・情愛――
青柳─義経物語、あるいは弁慶物語と言ったほうがよいのかもしれ   ませんが、義経物語の成長といった観点から、『義経記』と「安宅」との関係について、大谷先生からお話しください。
大谷─まず、『平家物語』の義経像が、前進あるのみ、連戦連勝の猪武者であるのに対して、『義経記』では、その栄光の時代の前後、不遇の義経が描かれています。この不遇の時代に義経を支えた家来の中心人物として、『義経記』では弁慶の存在がクローズアップされています。特に巻三などは、弁慶の物語として読むこともできる、独立性の高いものです。弁慶は『平家物語』にも義経の家来の一人として登場はしていますが、『平家物語』の中で義経の側近として重要な役割を果しているのは、弁慶ではなく伊勢三郎です。それに対して、『義経記』では弁慶が、異能を以て主君義経に仕え、家来を束ねる大変魅力的な人物として描かれています。
能の「安宅」は、『義経記』巻七に描かれている義経の北国落ちを材に作られているものですが、最近まで観世小次郎信光(音阿弥の子)の作と考えられてきました。一九六三年に刊行された日本古典文学大系『謡曲集』下巻(校注表章)でも「信光作」に分類されているのですが、表章先生が、晩年、史料の再吟味によって、信光の生年が通説よりも十五年早い宝徳二年(一四五〇)であることを提唱されました。そうしますと、「安宅」の最も古い演能記録の寛正六年(一四六五)には信光はまだ十六歳となり、「安宅」の作者である可能性が消されました。そこで浮上してきたのが「摂待」の作者、宮増です。宮増という人はわからないことが多いのですが、同じく『義経記』に典拠をもつ「摂待」と「安宅」には、呼応するものがあります。「安宅」の作者は義経記を読んでいると思われますが、舞台化にあたって改変が施されています。『義経記』で山伏の姿に仮装するのは十六人、山伏以外に仮装するのは義経ではなく、今出川の姫君です。
青柳─「安宅」は、『義経記』を読んだ上で改変している、と。
大谷─義経一行が山伏姿で奥州に逃亡したことは、恐らく史実です。『東鑑』文治三年二月十日条に、「(義経一行が)妻室男女ヲ相具ス。皆、姿ヲ山臥ナラビニ児童等ニ仮ルト云々」とあります。
能「安宅」の中心は、弁慶にあります。胆力があり、絶望的な逃避行を祝言に取りなす機転が利く忠義の人は『義経記』が描く弁慶像であり、能「安宅」は、この弁慶像を見事に形象化しています。知謀・剛勇・忠義、そして細やかな心配り、惻隠の情あふれる人間弁慶が造型されています。
能では登場人物を絞る必要があるので、稚児姿に仮装した姫君の存在を消し、代わりに義経一人を笠を深く被った強力姿に変えているのですが、山伏姿では「おん姿隠れなく御座候」と仮装を発案するのは、同じく弁慶です。
『義経記』巻七において、順次描かれている各地でのエピソードを、安宅の関に集約させ、次々に襲う難局を打開していく爽快な運びは、弁慶の異能を次々に見せる、一種の芸尽し物のパターンでもありながら、その丁々発止の連続性が緊迫した舞台を構成していて、うまくできていると思います。
青柳─圧縮することで、緊張感が高まる。
謡の「安宅」
友枝─「安宅」は、確かに動きのある激しい曲ですが、謡の曲でもあります。うちの流儀の正式な形は、シテの弁慶、子方の義経、九名の山伏、それと能力の十二名、それだけの人数が一斉に連吟で謡う。都から琵琶湖に出て「浅茅色づく愛発山」を越え日本海に出る。
青柳─長い道行ですね。
友枝─地名の羅列のようですが、その間にあったさまざまな事件も暗示し…、
大谷─そうですね。「波寄せて なびく嵐の烈しき」、つまり、花には仇となる浪風が吹きすさぶ「安宅」。苦難の旅路と、安宅での試練がこの道行きには表されているのですね。
友枝─勉強不足ですが、長年山伏の一人を勤めて来て、この同山の謡が非常に難しい。血気盛んに謡うときもあったのですが、先輩に「お前は落武者だろ」と言われ、落武者を意識して謡うと、今度は「壇ノ浦で平家を滅ぼした残りの精鋭だよ」と言われる。今でも解答が出せずにいるのですが。
大谷─弁慶の能力の最たるものは、絶体絶命の状況の中で発揮する胆力と、不吉を斥け、祝言へととりなすことができる能力だと思います。『義経記』の「愛発山の事」には、近江と越前の境はなぜ「あらち山」というのかと義経の北の方が尋ねた時に、足を踏み損じて血を流す難所だからだと義経が答える場面があるのですが、この時弁慶は、その伝えは事実無根と斥け、ここで白山の女体の龍宮の宮が御産のあら血(出産の時の出血)をこぼして安産なさったから「あらち山」なのだと異説を呈し、一行を鼓舞します。能「安宅」でも、義経一行が悲観的な状況であることは誰の目にも明らかですが、作り山伏となった一行は、哀しみを封じ込めているはずですね。
友枝─立派な武者が山伏に身を変じること自体、「憎っくき山伏」というわけですから、本来のプライドが許さない。義経をさらに弁慶の配慮で篠懸は除け、兜巾も外して強力の姿に変える。落魄の姿ですよね。
大谷─落魄の姿に身をやつすことも弁慶の深謀遠慮ですね。
友枝─先ほど話題に出た「摂待」では弁慶はシテではなく、ワキなのですが、やはり弁慶は深謀遠慮の人として「安宅」とも重なります。
青柳─「摂待」のシテは佐藤繼信のお母さんで繼信の遺児と共に、山伏を摂待して義経一行がやって来るのを待ち、義経一行と思われる人々が山伏姿でやって来たのだけれども、弁慶は知らんぷりをするわけですね。
大谷─この時の弁慶も、冷静沈着。
友枝─目的を達成するには、捨てなければならぬものがある。「安宅」ではプライド、「摂待」では人情。最後は義経が繼信の子の鶴若を抱き寄せてしまい、こちらでは正体がばれてしまうのですが、正体を明かさぬ弁慶の深謀遠慮は共通します。僕は時々思うのですが、「安宅」と「摂待」を同じ日に両方やったら面白いだろうなと思います。片方は動で片方は静ですが。それと、共に子方が知的存在であることも共通します。「安宅」でこの事件の発端、弁慶をはじめ誰も気が付いていないときに、今の旅人の言葉を聞いたか、安宅の関で山伏をとめているそうだと弁慶に告げるのは義経なのですね。義経の言葉がなかったなら、実力突破しか方法がなかった。
大谷─「安宅」の義経は、要所要所で主君のふるまいを見せていますね。
友枝─この曲の演出として大事な所だと思います。
大谷─弁慶が義経を打擲して関所を越えた後、弁慶は初めて苦しい心中を吐露します。従者である私の杖に当たってしまわれるのは、主君の御運も尽きたからではないのかと。ここで義経は弁慶の不安を払拭し、弁慶の超人的な機転こそ天の御加護、八幡神の御託宣であると説いて、この試練を祝言にとりなします。弁慶も大人であれば、義経はこれにまして大人の言動です。こうした粋な関係が「安宅」をさらに面白くしていますね。
友枝─それに続くクセが、またとりようによっては、愚痴に近いような内容で…。
青柳─これまでの義経の過去を愁嘆するのですね。
友枝─その後の延年の舞との関係で、近年省くことがあります。
大谷─全体が長大なのでやむを得ないのでしょうが、「安宅」のクセは大事な部分です。最初の道行きと、このクセが、弁慶一行の心中を表していて、しっとりとした要素が加わって、奥行きが出るのだと思います。
友枝─しっとりしていると、富樫がさっきはごめんと言ってまた危機が迫るという演出です。
大谷─今は最後の舞の比重が重くなっているのでしょうが、緊迫と安堵が繰り返される展開の面白さがこの曲の妙味ですね。
主君への思い
大谷─「安宅」では何が一番難しいですか。
友枝─とにかく義経に対する愛情ですね。能の動きはすべて型ですが、一挙手一投足に義経に対する愛情が現れていなければならない。安宅の関所を越えるだけではなく、平泉までたどり着かなければならない。その場その場での臨機応変の判断は義経に対する愛情から湧いて来るものとして表現すること、それが一番大事で難しいと思います。
大谷─『義経記』にこんな所があります。義経一行か、本物の山伏かと問答をした果てに、頼朝に使いを出して確認するので、それまで一行を逗留させることになる。危機的状況なのですが、弁慶は賭けに出ます。それは幸い、旅路の疲れを取る良い機会と、山伏連中が持っていた笈を運び入れ、逗留の間に取った関賃を斎料としてもらうことまでを主張して、のうのうと寛ぎます。弁慶は、なぜこれほどまでに迷いなく演じ切れるのか、それは全て義経のために身を呈しているから。弁慶は単に機転が利く智恵者として描かれているのではなく、身命を賭して主君義経を守ることを神仏に誓う、志の人として描かれています。
青柳─お見事だけでは足りないのですね。
友枝─皆さまストーリーをよくご存知ですし、それだけで終わってしまったら、ああそうかで…
大谷─拍手喝采で終わったら、能の「安宅」ではない。曲が終った時に、弁慶一行がこのまま逃げおおせてほしいという祈りのような気持が観客に湧いて来るような舞台が「安宅」でしょうか。
友枝─勧進帳を読むのも、若い頃の力強い読み方と変わって来ました。言葉として伝わるように、説得力をもった読み方を工夫しています。
大谷─今は勧進帳を弁慶一人で読みますが、古くは連吟のところがありますね。
友枝─うちの流儀でも昔は連吟だったようです。亡くなられた後藤得三先生が最後の安宅をなさったときに先頭から二人の山伏だけと連吟したと聞いたことがあります。今は連吟はまったくやっておりません。
大谷─連吟は声量は出るでしょうが、今の演出の方が弁慶の異能ぶりが表現できるでしょうね。
富樫は何故義経一行を通したか
青柳─富樫はどうして義経一行を通したのでしょうか。富樫の心中は如何なものでしょうか。東大寺再建を担った本物を殺してしまったら、都の処罰を恐れたか、とか。
友枝─最期の勤めを行って、尋常に誅せられよう、「それ山伏といっぱ」と始まる長い掛け合いのところで、富樫にこいつら殺したらマズイかも、と思わせるように持って行かないと駄目だよ、と先日、宝生欣哉さんと話していたときに言われました。
大谷─演じ方によってさまざまな想像が可能でしょうが、歌舞伎と違って、これは室町の物語ですから、私は神仏の咎めに対する恐れ、畏怖というものが強く働いていると思います。それが怖くて富樫は一行を通してしまうのではないでしょうか。富樫は、この一行が義経一行だと九十九パーセント確信しているのだけれども、あと一パーセント、ひょっとして自分の判断が間違っていたらという畏怖が残っている。もっと言えば、弁慶には神仏が憑いているのかもしれない、その弁慶を誅することは神仏に矢を向けること。なぜ弁慶があれほど確信に満ちた行動ができるかというと、神仏の加護を受けているからですから、そこは紙一重なのかもしれません。
青柳─先の義経の言葉の、弁慶がはかり事にあらず、八幡の御託宣という通りですね。
大谷─『義経記』で、殺される前に弁慶が最期の勤めをする場面で、弁慶は口では、関守が義経一行を射止めて勲功を上げることを祈るのですが、心の中では、義経が無事平泉まで到達することを祈願します。これは歌舞伎の腹芸とはちょっと違って、神仏への信仰がさせているものです。
友枝─それは勧進帳を読む気持ちと一緒かもしれません。
大谷─舞の本の「富樫」では、勧進帳を読む所で、勧進帳を高く持ち上げて読んだら後ろにいる人に見られてしまう、低く持って読めば前にいる富樫に見られてしまう、そこで「六尺二分の弁慶が七尺豊かに伸び上がり」、爪先立ったのでしょうね、そうして巻物をあまり広げないで、二行、三行ずつそっと広げて読んだことが細かに書かれています。こちらは少しコミカルですね。
友枝─そうですか。お能では、勧進帳を「天も響けと読み上げたり」というときの型が、いかにも勧進帳が相手方に見えてしまうような型なのです。
大谷─そうであっても一向に構わないのだと思いますよ。弁慶には神仏が味方していますから、畏れを抱いた富樫にはどのようであれ、本物の勧進帳に見えてしまうのでしょう。
青柳─神仏の加護、神仏の咎を怖れるというのは、岡見正雄さんの言われる「室町ごころ」の根底にあるものですね。
最期に、富樫が追っかけてきて、酒を振る舞われますね。歌舞伎では弁慶が豪快に大きな杯で酒を呑みますが。
大谷─『義経記』では、弁慶が他の家来たちに、その酒を呑むなというのです。皆、疲れを癒やすために呑みたがるのですが、「酒は本性を正すものなれば、酒は下向の間、断酒にて候」と。お酒は本性をあらわすものだから、義経に対してうっかり「わが君」などと呼んでしまうことを恐れての発言です。能「安宅」では、「菊の酒を飲まふよ」という言葉が出てきますね。菊の酒は寿命を延ばすものですから、これも祝言へのとりなしです。異能(超人)弁慶は、富樫の最後の試練も祝言にとりなして、義経の行く末に祝杯を上げるのです。
青柳─延年の舞と男舞とはどう違うのですか。
友枝─お寺で行う延年の舞をうちの流儀では男舞にとりいれているのです。三番叟みたいな動きもあります。
大谷─一寸、跳躍する動きもありますね。
友枝─三塔の遊僧だった弁慶が自らのたしなみを示す。
大谷─そして、この舞を延年の舞とすることも、祝言にとりなしての処置だと思います。
青柳─祝言というのは、この場合これからの旅が無事であれかしと。
大谷─そうです、予祝です。祈りをこめて。
青柳─それも「室町ごころ」ですね。
─それは今度の舞台の心がけとさせていただきます。
大谷節子
1982年京都大学文学部卒業。1988年京都大学大学院文学研究科修了。成城大学文芸学部教授。主著に『世阿弥の中世』(岩波書店、2007年)。
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青柳恵介
1950年生まれ。成城大学大学院博士課程満期退学。専門は国文学。古美術評論家。
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友枝 雄人