2024年7月4日

「実盛」をご覧いただくにあたって

もし知っておいたならばより一層楽しめるかもしれないということをまとめてみます。写真もなくて味気なくてすみません。このブログの最後の方に「実盛」の喜多流の詞章を貼ってあります。なおまだ第11回洩花之能のチケットのご予約がお済みでは無い方はコチラへ

斎藤実盛は主君を源義朝→源義賢→源義朝→平宗盛と目まぐるしく変えています。これは当時の中央に政治不安があり、このため関東に台頭していた豪族(武士集団)の権力争いが激しかったことに原因があります。

当時の関東の豪族たちは自分達の中央での後ろ盾を巡って混乱していた時代でした。こうしたおり源氏の嫡流であった源義朝は幼い頃より関東にいたのでそこを基盤として東国の武士団の統率を図り、また在地の豪族の紛争に介入することで勢力を広め、鎌倉亀ヶ谷に館を構えます。これをみた義朝の父為義は義朝との関係が悪かった事もあり、義朝の勢力拡大を嫌い、義朝の弟義賢を北関東に下します。義賢は当地の豪族秩父氏の娘を娶り、武蔵国比企郡大蔵に館を構えます。ほぼ時を同じくして義朝は中央政権との結びつきを強くするために京に上り、藤原氏長者の藤原忠通、鳥羽院と近づき冠位を得ます。この義朝が関東を留守にしている時に義朝の子義平が大蔵にいる義賢を討ったのが大蔵合戦です。岩波文庫の「平家物語」の巻第七の冒頭の解説がその状況を端的にまとめているので引用します。

この大倉合戦の時に当時義賢に支えていた斎藤実盛が、幼い義仲を憐れみ命を救い、信濃の中原兼遠のもとに送り届けたとされています。

ですから実盛は義仲にとっては命の恩人になります。大蔵合戦以降、実盛は再び義朝に仕え、平治の乱で義朝が亡くなったあとは長井の知行主となった平宗盛に仕えることとなります。

こうした実盛を取り巻く状況は残念ながら能「実盛」の中では全く語られていません。

端的にまとめると「実盛」を観るにあたっては(史実はともかく)

1 木曽義仲が武将として名を得るようになったのは幼い頃に斎藤実盛に命を助けられたから。

2 ↑の事を踏まえると実盛は源氏方に寝返る(或いは助命を願う)事も出来たはずだが、敢えて平家方で合戦に参加し討死をすることを選んだ。

の二点を知らないと面白さが半減してしまうかもしれません。

ちなみに2の敢えて討死という最後を選んだところについては平家物語「篠原合戦」に描かれています。

そして能「実盛」の直接の原典は「篠原合戦」に続く「真盛(さねもり)」です。

以下のリンクが非常に読みやすいので是非一度ご覧になってください(時間がある方は願書あたりから読むと面白いです)。「真盛」のリンク

ちなみに能「実盛」の中で名宣らない事をクローズアップしたのは作者の世阿弥です。

能「実盛」の前シテが頑なに名宣ることを拒むことが、後半の語りと相まって一つの山場となります。

また平家物語の「真盛」では時系列で話が展開しますが、能ではそうではありません。能での物語の展開では、戦場でその名を知らせないことで自身の名を挙げた実盛の心意気を鮮やかに描いています。この点が「実盛」を傑作となった最も大きな理由だと思っています。実盛の詞章はコチラ

能の「実盛」がなかったら芭蕉も「無惨やな 兜の下の きりぎりす」 という句を作っていなかったかもしれません。

実際に篠原を訪れた探訪記をブログにしました。コチラもぜひ。

友枝 真也