2016年6月14日

井筒を巡って2(伊勢物語二十三段のストーリー)

久しぶりのブログ更新になります。
今回は能「井筒」の舞台進行を見ていきたいのですが、まずは「井筒」の題材(本説)となった伊勢物語二十三段を見てみましょう。どうも古文を横書きにするのは違和感があるのでPDFファイルにしましたので、お手数ですがそちらでご覧いただければと存じます。
伊勢物語二十三段
後半2ページ目の方は実は「井筒」の中では取り上げられない部分なので、今回は触れません。
そんなに長いストーリーではないので、ざっくりとまとめると、

昔、田舎暮らしをしていた子供たちが井戸のそばで遊んでいたが、年頃になってお互いを思うようになっていた。
ある時、男から

筒井筒 井筒にかけしまろがたけ おいにけらしな 妹見ざる間に
(井戸と比べあっていた私の背丈は あなたに合わないうちに十分に伸びましたよ)

と和歌を送ると、女から返歌として

くらべこし 振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき
(幼い頃に比べあってきた髪も肩を過ぎる長さになりました。 あなた以外のどなたがこの髪をあげるのですか?)

などという歌を送り合って、お互い添い逢う間柄となった。
ところが女の方の親が亡くなってしまい、お互いこのままではいけないというときに、男には河内国高安に通う先(女)ができてしまった。けれどこの女はそれを不快と思っているような様子もなく、男を高安に送り出していたので、男は女にも他に男ができたのであろうと高安に出かけるふりをして庭に隠れていると、女は綺麗に身なりを整えてぼんやりと男が向かった方を眺めて

風吹けば 沖つ白波たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ

(風が吹きすさむ竜田山を あなたはひとり越えていくのですね  ※沖つ白波はたつを導く序詞)
という歌を詠んでいるのだった。
それを見て男は、この上なくこの女を愛しいと思って、高安には行かなくなってしまった。

というのが大体のストーリーです。
文字としての情報はここから得られるものは本当に最小限のものです。しかし、逆に言えばそれ以外のものは全て読者の想像に委ねてしまっているとも言えますし、そこにこそ伊勢物語の醍醐味があるとも言えます。
この二十三段の物語を皆さんの頭の中で映像化してみてください。
井戸の周りで幼馴染みで遊んでいた男の子と女の子、そしてそれぞれがそれなりに成長していった時間、思いもかけずに行き会った時、そうした風景、会話などディテイルにこだわるとちょっとしたドラマが出来上がりませんか?
最初の男が詠んだ歌は文字面通りの、背が伸びて大人になりました、ということではなく、あなたには会ってはいなかったけれども、あなたを思いながら大人になりましたという意味の求婚の歌です。また女の返歌は、童女の姿だったこの髪を上げて大人の女にしてくれるのはあなただけですよ、という喜んで求婚を受け入れている歌です。それを踏まえてもう一度この歌を見てみましょう。

筒井筒 井筒にかけしまろがたけ おいにけらしな 妹見ざる間に

くらべこし 振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

この歌に込められた感情や息遣いまでもが立ち上がってきませんか?こうした感情に共感したり、あるいは反発したり、疑問を持ってりすることが、「井筒」という能を楽しむことの第一歩と言えます。

さて、幸せいっぱいの二人ですが、物語には続きがあります。女の親が亡くなってしまったのです。当時は男が女のもとに通う「通い婚」が一般的で、女性の親の立場によって夫の立場も左右されます(藤原家が天皇の外戚となって権勢を振るったように)から、女の親が亡くなったということは男も後ろ盾をなくした、ということになります。そこで男は他にも通う先を河内国高安に作ったのです。しかし、女は嫌な顔一つせず、むしろ自分の家から違う女のもとに通う男の身を気遣って、

風吹けば 沖つ白波たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ

という歌を読むのです。その姿を物陰から見た男は女のことが 限りなくかなし(この場合のかなしいは愛しいといいった意味です。)と思って余所に通うことはなくなるのです。
一見ハッピーエンドのようでもあるけれど、ちょっと微妙な終わり方です。特に世の女性からは全面的な賛同を得ることは中々難しいことと思いますが、そのことについてはまた別の機会に取り上げるとして、まずは「井筒」のベースとなっている物語はこんなところです。

続きます。

友枝 真也